海野長門守幸光の墓と羽根尾城址
2016-05-22


長野原町羽根尾の○○山の麓に吾妻郡の戦国武将の墓がある
その武将の名は海野長門守幸光
羽尾治部入道道雲の二男海野長門守幸光三男海野能登守輝幸とて無双の勇士と加沢記に記される
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その墓はいちばん右側筐印塔の形を留めている
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掲示板があり墓の説明と吾妻の戦国武将海野兄弟の辿った略歴が記されている
斎藤越前守の家臣であったが真田に寝返り功名を立て岩櫃城代に昇り詰めるがその後逆心ありとて真田によって七十五歳を最後として岩櫃の露と消えた 
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墓碑は塔身の部分がやや違うがほぼ宝筐印塔の形をしている
正面は「雲林院殿前長州洞雲全龍居士」と海野長門守幸光の戒名を記し
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右方の側面には「上野州我妻郡羽根尾城主海野長門守同舎弟能登守従往者雖有遺跡没為水災故改之」と墓碑を改めた理由が記され
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左方の側面には「干時元文三年戌午七月朔日宗泉五世月心叟再興之」と墓碑を再興した言われが記されている (1732年この土地の宗泉寺の住職月心叟が再興したことが記されている)
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ここから水音が鳴る木陰の山麓道を辿り
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落ち葉が降り積もった階段を330段ほどほぼ直線で登りきったところに羽根尾城本丸址がある
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尾根にそって二の丸や堀切などがあるということであるが表示もなくよく分からない
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海野長門守の墓に建てられた掲示板で羽根尾城の略歴を見ておこう
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本丸跡からの羽根尾の集落を見下ろす現在の展望である 戦国の世もこの城山がこのように立木で覆われていたとするならばこの城の展望は寄せ来る軍勢をどれくらい察知できたのであろうか(あまり遠くまできかなかったのではなかろうか)
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長野原町の中心に1263年創建された雲林寺がある
火災だ亡失していたこの寺の伽藍を再建したのがこの海野長門守である
        長野原町雲林寺
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海野長門守幸光舎弟能登守輝光や羽根尾城などの経緯などを詳しく知りたければ「加沢記」を一読することをお勧めしたい

加沢記 巻之一  鎌原と羽根尾合戦之事
         長野原合戦之事
         斎藤入道没落並沼田勢加勢之事   
    巻之二  海野長門守同能登守吾妻郡代
    巻之三  海野兄弟御成敗矢沢頼綱無二心事
         海野兄弟迦葉とむらい玉ふ事  

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